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12月, 2023の投稿を表示しています

心温まるクリスマスへの準備 - デイランドユニークケアの手作りちぎり絵

  冬の訪れと共に、デイランドユニークケアでは心温まるクリスマスの準備が始まりました。 今回は、オリジナルの元絵から、ちぎり絵でサンタクロースを描くアクティビティ。 元絵はChatGPTで作ってみました。 色とりどりの紙を手に、集中と笑顔で作品を作り上げていきます。それぞれの紙片は、皆さんの色彩豊かな人生を象徴しているようです。 紙をちぎり、貼り合わせる行為は、手指の動きを促し、心を豊かにするだけでなく、お互いの絆を深める大切な時間。 この小さなアートワークからは、徐々に作品が仕上がっていく喜びと皆様の温もりが感じられます。 季節のイベントを通じて、一人ひとりの心に寄り添うケアを大切にしている私たち。これからも、皆さんの毎日に特別な彩りを添えていくことを約束します。

戦前の「紙屋さん」について

  みなさん、こんにちは。 ご利用者様のなかに紙屋さんの3代目としてお生まれになった方がいらっしゃいまして、一緒によく紙屋さんのお話をしています。 そこで今回は、せっかくChatGPTもあることですし、おじいさま、おとうさまの時代の紙屋さんの様子について調べてみました。 調べてびっくり! 今とは全く違う紙屋さんの様子がわかり、私たちもとても勉強になりました。 ということで、その内容を皆様にも共有させて頂きます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 戦前の紙屋さんの様子についてお話ししますね。 その時代の紙屋さんは、主に和紙をはじめとする各種の紙を販売する店でした。和紙は日本の伝統的な紙であり、書道用紙、包装紙、折り紙、更紗、照明用の紙など様々な用途で使われていました。店内は、棚や引き出しに様々な種類の紙が並べられており、紙の質や用途に応じて細かく分類されていました。 「照明用? なるほど!電球の傘にしているあれですね」 紙屋の店主は、紙の特性や用途に精通しており、顧客のニーズに合わせて最適な紙を提案していました。また、店内では紙製品の販売だけでなく、書道や折り紙などの文化活動のための教室を開催することもありました。 「紙の用途は今以上に多かったのでしょうね。ビニール袋などもなかったと思いますし。」 戦前の日本では、紙は日常生活の中で非常に重要な役割を果たしていたため、紙屋さんは地域社会の中で重要な存在でした。また、日本の伝統文化を支える役割も担っていたことから、紙屋さんは文化的な知識を持つ専門家としても尊敬されていました。 「やっぱり、紙は生活の中で、今以上にとても重要な役割を果たしていたんですね。」 この時代の紙屋さんの様子は、今日の紙製品を取り扱う店とは異なる、独特の魅力と文化的な価値を持っていたと言えるでしょう。 「ちなみに戦後はどうなったのでしょうか」 戦後の日本における紙屋さんは、戦前と比較していくつかの変化を経験しました。 1. 産業の変化と多様化 戦後、日本の産業が急速に成長し、それに伴い紙の需要も多様化しました。オフィス用紙、教育関連の教材、新聞や雑誌などの出版物用の紙が広く使われるようになりました。このため、紙屋さんも従来の和紙中心から、洋紙を含む多様な紙の販売へとシフトしていきました。 「そのご利用者様も和紙から洋紙になって新

鯵ヶ沢の日々(回想短編小説)

  昭和16年、美しい鯵ヶ沢の町に越してきたヒロコは、新たな生活に満ちた希望と興奮を感じていました。彼女の家族は青森市内からの転居で、海辺のこの素朴な町に慣れ親しむのに時間はかかりませんでした。 ヒロコは特に、海辺での時間を愛していました。彼女は波打ち際で遊び、日々の冒険で真っ黒に日焼けしました。 その健康的な姿に、ここでもおじいさんはいつも笑いながら「ヒロコじゃなくてクロコだべー」とからかっていました。 鯵ヶ沢の住人は温かく、特に地元の漁師たちはヒロコを可愛がっていました。 彼らは、その日に獲れた新鮮な魚を彼女に持ってきてくれ、ヒロコはその美味しさにいつも目を輝かせていました。海の幸に囲まれ、彼女は鯵ヶ沢の自然と文化を心から愛するようになりました。 しかし、時は流れ、ヒロコの家族は再び引っ越すことになりました。次の目的地は、弘前のりんご畑を営むお父さんの実家でした。 ヒロコは鯵ヶ沢を離れることを寂しく思いましたが、新しい地での新しい冒険にも胸を躍らせていました。 鯵ヶ沢での日々は、ヒロコの心に深く刻まれました。海の香り、漁師たちの笑顔、そして太陽に照らされた美しい海岸線は、彼女の記憶の中でいつまでも色褪せることはありませんでした。 これらの思い出は、ヒロコが成長し、新しい環境での挑戦に直面する際の力となり、彼女の人生を豊かにするものとなりました。

栃木県の思い出(回想短編小説)

 昭和30年代、栃木県芳賀町(はがまち)の春は水彩画のように優しい雰囲気の田んぼの風景が広がっていました。その穏やかな田園の中で、サチコという心優しい小学生の女の子が暮らしていました。 彼女の日々は学校生活の楽しさに溢れ、放課後の田んぼでのドジョウ捕りが最大の楽しみでした。泥水に反射する夕日を背にドジョウを追いながら、彼女は自然と一体化しているようでした。家に持ち帰ったドジョウは、母親の手によって温かな夕食に変わり、キッチンは幸せの香りで満たされました。 春になり、サチコの家族は田んぼで忙しく米作りに励んでいました。季節は移り変わり、父親は秋に麦を蒔き始めました。サチコはこの年中行事をいつも好奇心旺盛に眺めていました。「今年の麦はいい出来だ」と父親が語ると、サチコは期待に胸を膨らませました。彼女にとって、その麦で作られるパンが待ち遠しかったのです。 そして、遠くのパン屋さんがサチコの家を訪れる日が来ました。彼女にとって、この物々交換は特別な経験でした。パン屋さんはいつも笑顔で来てくれて、彼の手によって焼かれた作りたてのパンは特別な味わいを持っていました。母親はそのパンで特別な夕食を準備し、サチコは家族と共に幸せな時間を過ごしました。 サチコの学校生活も充実しており、特に算数が得意でした。優しい男性の先生は、彼女の努力をいつも評価してくれ、姉もこの先生に教わっていたという事実は彼女に安心感を与えていました。成績順に並ぶ時、サチコは自分の成績に少し誇りを感じていました。 そして、忘れられない特別な思い出があります。それは日光への遠足でした。古寺と壮大な自然の中で、サチコは新たな世界を発見し、一日中、心から楽しみました。 サチコの物語は、昔の日本の素朴な暮らしと子供時代の純粋な喜びを繊細に描いています。田んぼの静かな風景、学校での日々、家族との温かいひとときが、彼女の心に深く刻まれていることでしょう。そして、おばあさまの愛情を感じさせる「焼きたまご」のエピソードは、その記憶にさらに温かみを加えています。

三溪園とミエの昭和物語(回想短編小説)

  昭和15年(1940年)の春、横浜にある美しい三溪園。そこは小学2年生のミエにとって、特別な場所でした。三溪園の隣にある間門小学校での授業が終わると、ミエはいつも友達と一緒に三溪園で遊んでいました。その庭のような公園で、彼女らは石蹴りや缶蹴り、かくれんぼといった遊びに夢中になっていました。 三溪園の隣にあった砂浜では、潮干狩りをして楽しむこともありました。ミエが獲ったあさりは、家に持ち帰り、お母さんが美味しい味噌汁に変えてくれました。その味噌汁は、ミエとお母さんにとって特別なひとときをもたらしました。 季節は移り変わり、春には桜の花が三溪園を彩り、ミエはその美しさに魅了されました。 夏には、池で水鳥が優雅に泳ぐ姿を眺め、時にはちょっとしたいたずらで鳥たちを驚かせて遊んでいました。 秋には、園内の紅葉が彩りを添え、その美しさにミエはいつも心を奪われていました。 ミエの日常は、三溪園とその周辺の自然、そして家族との温かい時間に彩られ、彼女の心に深い印象を残しました。それは、彼女が大人になっても忘れられない貴重な思い出となりました。