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8月, 2025の投稿を表示しています

【物語】杜の都のシュプール

 杜の都のシュプール  昭和の冬の朝は、雪がきしむ音から始まります。白い息を弾ませながら、マキエさんは姉の手袋に指を重ね、蔵王へ向かう峠道を見上げました。木立のあいだから射す光は粉雪をきらめかせ、遠くでは樹々が風に鳴っていました。 最初の一本を滑り降りた瞬間、雪面がふっとやわらぎ、足裏に伝わる冷たさが歓びに変わります。姉が振り返って笑うと、世界は一気に広く、高く、明るくなりました。あの朝から、雪はいつもマキエさんの味方でした。  高校に入ると、迷わず山岳部の部室の戸を引きました。夏は泉ヶ岳や船形山で朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、稜線の向こうに広がる雲海を眺めます。秋は地図とコンパスを手に歩き方を磨き、冬になればワックスの匂いに囲まれて板を整えました。木造校舎の廊下にはストーブの匂い、部室にはザックやロープの重み。勉強は「逃げませんから」と横に置かれ、代わりに脚には確かな筋肉が宿りました。  私立の学校だったので、そのまま短大へと進みます。変わらないのは山と雪への熱でした。休日ごとに仲間と集まり、夜行列車に揺られては白い斜面へ向かいます。ゲレンデに立つと、見知らぬ大学の人たちともすぐに打ち解け、目配せ一つで列は整いました。「いきます」と先頭が舞うと、つづく板が一枚の筆のようになって、雪面に同じ角度の弧が幾本も連なります。ふり返れば、斜面いっぱいに並ぶシュプールは、まるで音符のようでした。息が合うというのは、言葉を超えて胸が温かくなるものだと、そのたびに知りました。  短大を卒業するころ、街には新しいリズムが流れはじめます。社交ダンスが流行し、仙台のダンスホールにはネオンが灯りました。磨き上げられたフロア、レコード針が置かれる小さな音、ワルツやタンゴに合わせて揺れるドレスの裾。雪の斜面で身につけたバランス感覚は、ふしぎと音楽にもよくなじみました。三拍子に合わせて一歩、また一歩。ターンを重ねるほどに、雪上で刻んだ円弧の感覚が足もとに戻ってきます。あの白い面が、今は木目の光る床に変わっただけ。そう思うと、少し心が強くなりました。  ある夜、休憩の鐘が鳴ったあと、フロアの照明が落ち着いた色に変わりました。テーブルに戻ろうとしたマキエさんに、黒のタイをきちんと結んだ男性が一礼して言います。 「ご一緒いただけますか」  その声は、雪に吸い込まれるように柔ら...

【物語】紙の鍵盤と港の風

  紙の鍵盤と港の風  昭和二十年代の苫小牧は、海からの風が紙の匂いを運ぶ町でした。炭の火がやわらかくゆらぐ台所の隅で、サチコさんは古いカレンダーに描いた黒鍵と白鍵で指ならしをしていました。窓の外では、貨物列車の音が雪の匂いといっしょに遠くを渡っていきます。 音は出ません。それでも指先は旋律を知っていました。紙の鍵盤は、小さな心にしまわれた、未来への合図だったのです。  はじめて本物のピアノに触れたのは、町の公民館でした。黒光りする楽器の前に座ると、紙の上で覚えた運びがそのまま音になり、部屋に波紋のように広がりました。聴いていた人たちが思わず顔を見合わせ、「天才かもね」と声をもらしました。サチコさんは頬を赤くしながら、鍵盤の端にそっと指をそろえました。その日から、彼女の時間はピアノの譜めくりで数えられるようになりました。  音はやがて言葉になり、歌になりました。教会で響いた讃美歌を真似てみると、声が天井にふわりと昇っていき、大人たちがまた「天才かも」と笑いました。指と同じように、息にも道があるのだと知って、サチコさんは声楽へ進みます。中学生になった年の冬、初めて出たコンクールで、舞台の床の冷たさをかかとに感じながら歌いきり、金色のリボンのついた賞状を受け取りました。雪の光に包まれる帰り道、その紙のあたたかさは、手袋越しにもはっきり伝わりました。  高校では合唱部に入りました。ひとりの声が群れになり、群れがまたひとりの心を抱きとめる――合唱は、苫小牧の風景そのもののようでした。港のクレーンがゆっくり動くように、音は決まった道をたどり、休符は海霧のように静けさを運びました。やがて札幌の音楽学校で学び終えると、サチコさんは「駒大附属苫小牧高校」の音楽講師として町へ戻ってきます。  職員室には、昼下がりの粉雪のようにチョークの粉が舞っていました。数学の先生は、黒板の前に立つと数字の川をすらすらと渡っていく人でした。放課後、音楽室の扉からこぼれるピアノの小さな和音に、その先生が立ち止まります。「音にも証明があるんですね」と彼は言い、サチコさんは笑って「答えが一つじゃないところが、音楽の面白さです」と返しました。  ふたりはいつのまにか、同じ下校の時計に目をやるようになりました。内緒にしておくつもりでしたが、合唱部の生徒が言います。「先生、今日、いつもより柔...