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【物語】紙の鍵盤と港の風

 紙の鍵盤と港の風

 昭和二十年代の苫小牧は、海からの風が紙の匂いを運ぶ町でした。炭の火がやわらかくゆらぐ台所の隅で、サチコさんは古いカレンダーに描いた黒鍵と白鍵で指ならしをしていました。窓の外では、貨物列車の音が雪の匂いといっしょに遠くを渡っていきます。


音は出ません。それでも指先は旋律を知っていました。紙の鍵盤は、小さな心にしまわれた、未来への合図だったのです。

 はじめて本物のピアノに触れたのは、町の公民館でした。黒光りする楽器の前に座ると、紙の上で覚えた運びがそのまま音になり、部屋に波紋のように広がりました。聴いていた人たちが思わず顔を見合わせ、「天才かもね」と声をもらしました。サチコさんは頬を赤くしながら、鍵盤の端にそっと指をそろえました。その日から、彼女の時間はピアノの譜めくりで数えられるようになりました。

 音はやがて言葉になり、歌になりました。教会で響いた讃美歌を真似てみると、声が天井にふわりと昇っていき、大人たちがまた「天才かも」と笑いました。指と同じように、息にも道があるのだと知って、サチコさんは声楽へ進みます。中学生になった年の冬、初めて出たコンクールで、舞台の床の冷たさをかかとに感じながら歌いきり、金色のリボンのついた賞状を受け取りました。雪の光に包まれる帰り道、その紙のあたたかさは、手袋越しにもはっきり伝わりました。

 高校では合唱部に入りました。ひとりの声が群れになり、群れがまたひとりの心を抱きとめる――合唱は、苫小牧の風景そのもののようでした。港のクレーンがゆっくり動くように、音は決まった道をたどり、休符は海霧のように静けさを運びました。やがて札幌の音楽学校で学び終えると、サチコさんは「駒大附属苫小牧高校」の音楽講師として町へ戻ってきます。

 職員室には、昼下がりの粉雪のようにチョークの粉が舞っていました。数学の先生は、黒板の前に立つと数字の川をすらすらと渡っていく人でした。放課後、音楽室の扉からこぼれるピアノの小さな和音に、その先生が立ち止まります。「音にも証明があるんですね」と彼は言い、サチコさんは笑って「答えが一つじゃないところが、音楽の面白さです」と返しました。

 ふたりはいつのまにか、同じ下校の時計に目をやるようになりました。内緒にしておくつもりでしたが、合唱部の生徒が言います。「先生、今日、いつもより柔らかい声ですね」。数学の先生の白いチョークの粉が、なぜかサチコさんの袖口に少しだけついている日もありました。秘密はすぐに音になって、やさしく廊下を流れていきました。やがてふたりは結婚し、紙の鍵盤と数式の線は、同じ生活のノートに並び始めます。

 サチコさんは「苫小牧南高校」を経て、母校の「苫小牧東高校」の音楽の先生になりました。季節ごとに選ぶ合唱曲は、港の空の色のように少しずつ変わりました。春は雪どけの水音の歌、夏は海風の速さを思わせるリズム、秋は木の匂いがするハーモニー、冬は灯りの温度を頼りにする旋律。教室の窓ガラスが白く曇るたび、サチコさんは「息の居場所を見つけましょう」と静かに言いました。

 長野オリンピックの年、音楽室にテレビを運びこみました。授業をそっと中断して、みんなでスキージャンプを見守ります。助走のスピード、踏み切りの瞬間、風のつかみ方――それはまるで歌のブレスと高音の跳躍のようでした。「ほら、ここで息を整えてから跳びます」とサチコさんが言うと、画面のなかの選手が空へ開き、生徒たちの歓声が音符になって天井に舞い上がりました。日本の選手が勝った瞬間、誰かが指揮者のように両手を振り、笑い声がカデンツァになりました。その日、音楽室はひとつの国歌のように明るかったです。

 夕方、校舎の影が長く伸びるころ、サチコさんは机の引き出しから、古い紙の鍵盤を取り出します。少し黄ばんだその紙は、ところどころ角がまるくなっていました。新しい生徒に渡すとき、こう語りかけます。「音が聞こえなくても、指が道を覚えてくれます。道があれば、いつか必ず音になります」。紙の鍵盤は、音のないところから音を生む小さな橋でした。

 港の風は相変わらず、紙の匂いと海の塩気を運んできます。数学の先生は相変わらず、黒板の端に白い線を残します。音と数は違う言葉で、同じ確かさを語っていました。紙の鍵盤から始まった物語は、いまも続いています。教室で生まれる新しい声が、町の空へすこしずつ高く、やさしくひろがっていきます。サチコさんは今日も、その最初の一音を待ちながら、静かに息を整えます。音は、きっと、雪明かりのようにそこへ降りてくるのだと信じているからです。

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