スキップしてメイン コンテンツに移動

ご利用者様で、雅叙園に縁のある方がいらして、一緒に調べてまとめたものです。

 

ホテル雅叙園東京:昭和の竜宮城から受け継がれる日本美の世界

「昭和の竜宮城」と呼ばれた絢爛豪華な結婚式場が、現代では「日本美のミュージアムホテル」として生まれ変わっています。ホテル雅叙園東京(旧・目黒雅叙園)は東京都目黒区にある歴史ある施設で、90年以上の時を経ても変わらない日本美の世界を体験できる特別な場所です。伝統と革新が織りなす魅力をご紹介します。



歴史:創業から現在まで

創業者の想い

1889年に石川県の農家に生まれた細川力蔵は、15歳で上京して銭湯で働き始めました。努力と才覚で20代前半には独立し、実業家として成功。1928年に東京・芝浦で「芝浦雅叙園」という料亭を開業しました。

その後、目黒に広大な敷地を取得し、1931年に「目黒雅叙園」として移転オープン。当時としては画期的な「神前式から披露宴まで一か所で完結できる総合結婚式場」として誕生しました。創業者の「料理だけでなく目でも楽しませたい」という想いから、館内随所に著名な芸術家による壁画や天井画、彫刻が施されました。

黄金期から戦時中、そして戦後へ

1935年には現在も残る「百段階段」が完成。純金箔や螺鈿細工を施した豪華絢爛な内装から「昭和の竜宮城」と称され、多くの人々を魅了しました。当時のトイレは「女性が中に入るとなかなか出てこられない」と噂されるほど美術工芸が凝らされ、現在も1階の化粧室に「一億円トイレ」として再現されています。

第二次世界大戦中は一部が海軍病院として使用されましたが、幸いにも戦災を免れ、戦後も料亭・宴会場として営業を続けました。戦後間もない1948年には経営の転機を迎え、ホテル部門が一時分離されますが、その後も都内有数の結婚式場・宴会場として確固たる地位を築きました。

平成の大改修から現代へ

1991年には総工費850億円を投じた大改築が完了。地上19階・地下3階建ての本館と高層オフィスビル「アルコタワー」からなる近代的複合施設となりました。老朽化した旧館は取り壊されましたが、貴重な天井画や欄間絵などは新館に移設され、伝統美が受け継がれています。

平成期には経営体制の変遷もありましたが、2009年には百段階段が東京都指定有形文化財に指定され、文化的価値が再認識されました。そして2017年4月1日、「目黒雅叙園」から「ホテル雅叙園東京」へと名称を変更。「和の文化に彩られたミュージアムホテル」として新たなブランド戦略を展開しています。

最近では2025年に所有者が変わり、一時休館してのリニューアル工事が予定されるなど、さらなる進化を続けています。

見どころ満載!館内の魅力

エントランスから始まる非日常体験

敷地内に立つ「雅叙園」と刻まれた大きな石碑が目印です。エントランス外観は黒と白を基調に所々金色があしらわれ、落ち着いた中にも気品を感じさせます。

館内に一歩入ると和風のモダンデザイン空間が広がり、色鮮やかな彩色木彫板が並ぶ回廊がお出迎え。さらに進むと、旧目黒雅叙園から移築された「招きの大門」が現れ、その瓦屋根の棟飾りには縁起の良い「縁結び」の意匠が施されています。昔から結婚式場として親しまれてきた雅叙園らしい演出です。

フロントがある8階に上がると、にぎやかな1階とは一転、宿泊者だけの静かな空間が広がります。着物姿のスタッフによる丁寧なお出迎えを受け、ゆったりと腰掛けながらチェックインができます。

バラエティ豊かな食の世界

館内には7つのレストランとカフェ、ペストリーショップがあります。カフェラウンジ「パンドラ」では滝が流れる美しい庭園を眺めながらティータイムを楽しめます。全席個室の日本料理「渡風亭」では落ち着いた和室空間で四季折々の会席料理を、中国料理「旬遊紀」では本格広東料理を堪能できます。

イタリアンの「RISTORANTE CANOVIANO」および「CANOVIANO CAFE」では、自然派イタリアンの第一人者・植竹隆政シェフによる有機食材とサステナブルなワインのマリアージュが楽しめます。このほか、目の前で巧みな鉄板調理が楽しめるステーキハウス「ハマ」や、オリジナルスイーツの「栞杏1928」など、多彩な食体験が揃っています。

ゆとりの客室

全60室すべてが80㎡以上のスイート仕様という贅沢な客室。全室にジェットバス(ジャグジー)とスチームサウナを備えています。

「ジャパニーズ」タイプは畳敷きに低めのベッドが2台配され、ヘッドボードには西陣織が用いられるなど、細部まで日本美にこだわっています。約80平米の広さで次の間(リビング)+寝室+バスルームという贅沢な間取りで、最大4名まで宿泊可能です。

窓際には縁側のようなスペースがあり、眼下に目黒川の景色が広がります。春には川沿いの桜が満開となり、晴れた日には富士山まで望める絶景も魅力の一つです。洋室タイプも同様に広々とした上質な空間で、都会の喧騒を忘れさせてくれます。

圧巻の百段階段と美術空間

館内随所に美術品が飾られており、その所蔵数は実に約2,500点に及びます。創業時の職人たちが手掛けた彩色木彫板や日本画、螺鈿細工などが建替えを経た現在も大切に保存・展示されています。

雅叙園の象徴である「百段階段」は2009年に東京都指定有形文化財となりました。昭和10年(1935年)竣工の木造建築で、99段の階段に沿って7つの和室宴会場が連なるこの空間は、戦火や建て替えを経ても奇跡的に残った昭和初期の宝物です。

各部屋は趣向を凝らした内装で、螺鈿細工や日本画、極彩色の浮彫彫刻、繊細な組子細工など、当時の職人技が光ります。特に純金箔や彩色木彫板で飾られた「漁樵の間」の煌びやかさは圧巻です。

この百段階段では季節ごとに様々な企画展やイベントが開催されています。「百段雛まつり」など、歴史的な意匠を鑑賞しながら日本の伝統文化に触れられる場として、多くの来訪者を惹きつけています。

雅叙園の役割と文化的価値

結婚式場から総合ホテルへ

雅叙園は時代とともにその役割を変化させてきました。創業時は料亭としてスタートしつつも、日本初の総合結婚式場として革新性を発揮。戦前から昭和中期は主に料亭・宴会場として利用され、雅叙園で結婚式を挙げることは一種のステータスとなりました。創業以来の挙式件数は22万組(2018年時点)を超えるといわれています。

宿泊機能は創業者の時代には付随的でしたが、1991年の新本館開業以降は本格的なホテル設備を備えるようになりました。特に2017年のリブランドでは「ホテル」を冠し、宿泊施設としてのブランド確立を図っています。現在では結婚式場・宴会場とホテル機能が融合した施設として、多様なニーズに応えています。

日本文化との繋がり

雅叙園の文化的価値は、昭和初期の超絶技巧ともいえる美術工芸の集大成であることにあります。館内を飾った膨大な天井画・壁画・彫刻・漆芸品は、当時一流の芸術家たちの手によるものでした。日本画では鏑木清方、荒木十畝、板倉星光、磯部草丘らが名を連ね、近代日本美術と職人技術の粋を今に伝える貴重な空間となっています。

太宰治の小説『佳日』にも登場する雅叙園は、永井荷風や谷崎潤一郎など多くの文豪たちにも愛されました。また、スタジオジブリのアニメ映画『千と千尋の神隠し』に登場する湯屋のモデルの一つとも言われています。宮崎駿監督自身が「湯屋の豪奢さを表現するために目黒雅叙園も参考にした」と語ったとされ、映画の赤い廊下や食事処のシーンには雅叙園の面影を見ることができるという指摘もあります。

映像作品のロケ地としても使われ、1979年放送のテレビドラマ『大都会 PARTIII』では、大富豪の屋敷という設定で旧木造館や百段階段が撮影に使用されました。また、多くの著名人の結婚披露宴の舞台にもなり、皇族や政財界の令嬢・令息、芸能人などの豪華披露宴も行われてきました。

おわりに

ホテル雅叙園東京は、昭和初期に誕生した「日本美術の殿堂」から、現代の「日本美のミュージアムホテル」へと進化しながらも、その豪華絢爛な美的世界観を守り続けています。

創業当初に細川力蔵が目指した「かけがえのない一日をゆったり過ごしてもらう」という理念は、形を変えながらも脈々と受け継がれています。それは婚礼当日の新郎新婦と家族にとっても、宿泊する旅行者にとっても、それぞれの"大切なひととき"を特別な空間で過ごしてもらいたいというおもてなしの心です。

日本の近現代史・文化史に名を刻んできたホテル雅叙園東京は、これからも多くの人々の思い出に彩りを添え続けることでしょう。

コメント

このブログの人気の投稿

麦の香りと日々の記憶ー栃木県の思い出

  麦の香りと日々の記憶 水彩画のような柔らかな光が、昭和三十年代の芳賀町の春の田園を染めていた。空気は澄み、風が運ぶ土の香りは生命の目覚めを告げていた。その光景の中に溶け込むように、一人の少女が佇んでいた。 サチコ。 十歳の彼女の瞳には、この世界のすべてが鮮やかに映っていた。田んぼの畦道を歩くサチコの足取りは軽やかで、時折立ち止まっては水面に映る自分の姿を不思議そうに覗き込む。薄い木綿の服が風に揺れる様は、まるで風景画の中の一筆のようだった。 午後の授業を終えたサチコの楽しみは、夕暮れの田んぼでのドジョウ捕りだった。他の子どもたちが騒がしく遊ぶ中、サチコはひとり、水と戯れるように泥の中に手を差し入れる。指先に触れるドジョウの滑らかな感触は、言葉にならない喜びをもたらした。 「あっ、いた!」 小さな声を上げると、その音は夕闇の中に吸い込まれていく。西の空が赤く染まり始めると、サチコは捕まえたドジョウを小さな竹籠に入れ、家路に就いた。畦道の両側では、稲の若葉が風に揺れ、それは少女に手招きをしているようにも見えた。 「ただいま」 障子戸を開けると、炊事の音と共に母の温かな声が返ってきた。竹籠を台所に差し出すと、母はにっこりと微笑み、その日の夕餉の準備に取りかかった。 「今日はたくさん捕れたわね」 母の手にかかると、泥臭いドジョウは香ばしい一品へと変わる。囲炉裏の火が揺らめき、その光が天井の梁を照らし出す。家族が囲炉裏を囲み、その日の出来事を語り合う時間は、サチコにとって何よりも安らかな時間だった。 春から初夏にかけて、サチコの家族は田の神様に豊作を祈りながら、米作りに勤しんだ。鍬を手に額に汗を浮かべる父の背中は、サチコの目にはとても頼もしく映った。稲の成長と共に季節は移ろい、田んぼの緑は黄金色へと変わっていった。 稲刈りが終わると、父は畑に麦を蒔き始めた。「今年の麦はきっといい出来になる」と父が言うたびに、サチコは小さく頷いた。それは単なる農作業の一環ではなく、一家の希望を土に埋める儀式のようだった。 やがて麦が芽吹き、青々とした畑が広がる頃、遠くの町からパン屋がやってくる。サチコの家で作られた麦と交換に、パン屋は焼きたてのパンを届けてくれるのだ。その香りは、サチコにとって特別な日の証だった。 「サチコ、パンが来たよ」 母の呼び声に飛び起きた朝は、いつもより鮮や...

橘の花咲く季節に思いを馳せて〜日本文化に息づく橘の物語〜

はじめに:歌から始まった小さな探求 五月五日、私たちは季節にちなんだ歌を皆さんと一緒に歌いました。その中で「鯉のぼり」の歌詞に出てくる「橘かおる朝風に」という一節が、ふと疑問を呼び起こしました。この時期に橘の花は本当に咲くのだろうか?そして鯉のぼりと橘には何か特別な関係があるのだろうか? さらに話が広がり、ある方から「右近の桜、左近の橘」という雛祭りにも関わる言葉を教えていただきました。橘が日本の伝統文化の中でどのような位置づけにあるのか、興味は尽きません。そこで、橘の木の歴史的・文化的背景について調べてみることにしました。 橘とは?:日本固有の常緑柑橘 橘(タチバナ)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で、日本に古来から自生していた固有の柑橘種です。一年中緑の葉を茂らせ、5月から6月にかけて純白で香り高い五弁の花を咲かせます。冬には小さな黄色い実をつけますが、酸味が強いため生食には向きません。 この常緑性こそが、橘が日本文化の中で「永遠性」や「長寿」の象徴として扱われる所以となっています。 神話に刻まれた橘:不老不死の象徴 橘の文化的重要性は、日本の古い神話に根ざしています。『古事記』や『日本書紀』には、垂仁天皇の命を受けた忠臣・田道間守が、不老不死の理想郷「常世の国」へ赴き、「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」—時を選ばず常に芳香を放つ木の実—を探し求める物語が記されています。この「非時香菓」こそが橘だと伝えられています。 田道間守が10年の歳月を経て帰還した時には既に天皇は崩御しており、彼は深く嘆き、持ち帰った橘を御陵に献じて殉死したと言われています。この悲劇的な物語は、橘に「永遠性」や「不朽」といった象徴的な意味を与えました。 「右近の橘、左近の桜」:宮廷文化に息づく橘 橘の文化的重要性を語る上で欠かせないのが、「左近の桜、右近の橘」という言葉です。これは京都御所の紫宸殿の南庭に、天皇の玉座から見て左(東)に桜、右(西)に橘が植えられていたことに由来します。 「左近」「右近」とは、儀式の際にこれらの木の近くに陣を敷いた近衛府の武官(左近衛府と右近衛府)に由来しています。興味深いことに、平安京遷都当初、東側に植えられていたのは桜ではなく梅でした。しかし、仁明天皇の時代に梅が枯れてしまったため、桜に植え替えられたと伝えられています。 橘は常...