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北海道の奇跡!たった2年で誕生した「昭和新山」のすごい話

 

こんにちは!

今朝、北海道出身の方と話をしていて、とても興味深い山の話を聞いたんです。「昭和新山って知ってる?」と聞かれて、その珍しい山の生まれ方にビックリ!

これはぜひみなさんにも知ってもらいたいと思って、詳しく調べてみました。

昭和新山ってどんな山?

昭和新山は、北海道の洞爺湖のそばにある高さ398メートルの火山です。今でも山から湯気がモクモクと出ていて、まさに「生きている山」って感じなんです。

1957年には国の特別天然記念物に指定されて、洞爺湖有珠山ユネスコ世界ジオパークの重要な見どころにもなっています。

まるで映画みたい!山が生まれた驚きの物語

昭和新山が誕生したのは、今から80年前の1943年(昭和18年)のこと。その生まれ方がもう、本当にドラマチックなんです!

始まりは地震から

1943年12月、このあたりで地震がバンバン起こるようになって、地元の人たちはとても心配していました。そして1944年に入ると、なんと地面がグングン盛り上がり始めたんです!電車の線路が曲がったり、村の人たちが避難しなければならないほどでした。

大噴火の連続!

1944年6月から10月にかけて、なんと17回も大きな噴火が起こりました。

そして山が誕生!

運命の1944年12月。地下からドロドロの溶岩がゆっくりと地面を押し上げ始めました。

まるで巨大なモグラが地面を突き破って出てくるみたいに、ドーム型の山がみるみる大きくなっていったんです。

1945年9月には高さ175メートルまで成長して、ようやく落ち着きました。

なんと、たった2年で山が一つできちゃったんです!山が赤茶色に見えるのは、もともと畑だった土が高熱で焼けたからなんですって。

郵便局長さんが山を「買った」すごい話

ここからが一番感動的な話なんです。地元の郵便局長だった三松正夫さんという方がいました。この人、山が生まれる瞬間からずーっと観察を続けて、手作りの道具で山の成長を記録し続けたんです。その記録は「ミマツダイヤグラム」と呼ばれて、世界的にも貴重な資料になりました。

山を守るための大決断

山ができあがると、硫黄を取ろうとする人たちがワラワラと集まってきました。でも、生まれたばかりの山はとても危険。このままじゃ山が荒らされちゃうし、人も危ない!と考えた三松さん。

なんと、自分のお金で山を買い取っちゃったんです!戦後の大変な時期に、決してお金持ちではなかった郵便局長さんが、全財産をはたいて山を守ったんです。

誰に頼まれたわけでもなく、ただ「この素晴らしい山を後世に残したい」という気持ちだけで。

おかげで昭和新山は、成長過程がきちんと記録された世界でも珍しい火山になりました。そして今でも三松家の私有地なんです。

個人が火山を所有しているなんて、世界的にも超レアケースですよね!

昭和新山を楽しもう!

残念ながら山に登ることはできませんが、近くで見ることはできます。

おすすめの楽しみ方

  • 山のふもとや、隣の有珠山ロープウェイの展望台から、洞爺湖の青と昭和新山の赤茶色のコントラストを楽しめます
  • 三松正夫記念館で、三松さんの観察記録や火山の模型を見学できます
  • 昭和新山熊牧場で、エゾヒグマに会えます
  • 冬には「昭和新山国際雪合戦」という面白い大会も開催されます

ちょっとした豆知識

「昭和新山」という名前は、地球物理学者の田中舘秀三さんが付けました。昭和時代に生まれた新しい山だから「昭和新山」。シンプルで分かりやすいネーミングですよね!

同じ時期にメキシコでも似たような山(パリクティン)ができて、世界中の研究者が比較研究をしているそうです。

まとめ

昭和新山は、まさに「地球が生きている」ことを実感できる貴重な場所です。北海道に行く機会があったら、ぜひこの珍しい火山を見に行ってみてください。

三松正夫さんの「山を守りたい」という純粋な気持ちと行動力には、本当に頭が下がります。一人の情熱が、こうして貴重な自然遺産を守り続けているんですね。日本には、こんな風に地域の宝を個人の力で守っている例が、きっと他にもたくさんあるんでしょうね。

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