杜の都のシュプール
昭和の冬の朝は、雪がきしむ音から始まります。白い息を弾ませながら、マキエさんは姉の手袋に指を重ね、蔵王へ向かう峠道を見上げました。木立のあいだから射す光は粉雪をきらめかせ、遠くでは樹々が風に鳴っていました。
最初の一本を滑り降りた瞬間、雪面がふっとやわらぎ、足裏に伝わる冷たさが歓びに変わります。姉が振り返って笑うと、世界は一気に広く、高く、明るくなりました。あの朝から、雪はいつもマキエさんの味方でした。
高校に入ると、迷わず山岳部の部室の戸を引きました。夏は泉ヶ岳や船形山で朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、稜線の向こうに広がる雲海を眺めます。秋は地図とコンパスを手に歩き方を磨き、冬になればワックスの匂いに囲まれて板を整えました。木造校舎の廊下にはストーブの匂い、部室にはザックやロープの重み。勉強は「逃げませんから」と横に置かれ、代わりに脚には確かな筋肉が宿りました。
私立の学校だったので、そのまま短大へと進みます。変わらないのは山と雪への熱でした。休日ごとに仲間と集まり、夜行列車に揺られては白い斜面へ向かいます。ゲレンデに立つと、見知らぬ大学の人たちともすぐに打ち解け、目配せ一つで列は整いました。「いきます」と先頭が舞うと、つづく板が一枚の筆のようになって、雪面に同じ角度の弧が幾本も連なります。ふり返れば、斜面いっぱいに並ぶシュプールは、まるで音符のようでした。息が合うというのは、言葉を超えて胸が温かくなるものだと、そのたびに知りました。
短大を卒業するころ、街には新しいリズムが流れはじめます。社交ダンスが流行し、仙台のダンスホールにはネオンが灯りました。磨き上げられたフロア、レコード針が置かれる小さな音、ワルツやタンゴに合わせて揺れるドレスの裾。雪の斜面で身につけたバランス感覚は、ふしぎと音楽にもよくなじみました。三拍子に合わせて一歩、また一歩。ターンを重ねるほどに、雪上で刻んだ円弧の感覚が足もとに戻ってきます。あの白い面が、今は木目の光る床に変わっただけ。そう思うと、少し心が強くなりました。
ある夜、休憩の鐘が鳴ったあと、フロアの照明が落ち着いた色に変わりました。テーブルに戻ろうとしたマキエさんに、黒のタイをきちんと結んだ男性が一礼して言います。
「ご一緒いただけますか」
その声は、雪に吸い込まれるように柔らかでした。差し出された手は冷たくはなく、けれど山の朝の空気を思わせる清さがありました。二人でフロアへ戻ると、曲はスローワルツ。初めの一歩で、彼のリードが驚くほど自然に伝わります。肩に置かれた手が動くたび、斜面で風を切った日の体の記憶が応えました。
「どちらで滑るのがお好きですか」と彼がささやきます。
「蔵王がいちばん落ち着きます」と答えると、彼は目を細めてうなずきました。
「樹氷の季節は、息をするのももったいないくらい美しいですね」
たったそれだけの会話で、心の中に同じ地図が広がっていることがわかりました。山の名前、風の向き、雪の粒の大きさ。踊りながら交わす言葉は少しでも、確かな情報は手から手へ、歩幅から歩幅へと渡っていきます。
曲が終わるころ、フロアの端で二人は小さく礼をしました。ダンスホールを出ると、定禅寺通りの並木が夜風にそよいでいます。遠くで市電の鈴が鳴り、街のどこかから湯気の立つ屋台の匂いが漂ってきました。
「歩きましょうか」
並んで歩く足もとは、さっきまでの三拍子をまだ覚えていました。石畳に残る足跡は雪ではなく、すぐに風に消えてしまう小さな印にすぎません。それでも、出会いの夜に刻まれたステップは、胸の内側で温かく残り続けました。
季節は巡ります。冬が来れば、マキエさんはやはり山へ向かい、白い斜面に新しい弧を描きました。春が来れば、ダンスホールの窓は少し開け放たれ、優しい風がカーテンを揺らしました。気づけば、雪上で揃えた隊列の美しさと、フロアで息を合わせる幸福は、同じ名前で呼べるものになっていました。信頼という名前です。
やがて二人は、踊りの前にも後にも一緒に食事をとり、雨の日はレインコートを分け合い、晴れた日には街の緑陰を少し遠回りして歩きました。正式に結婚を決めた夜、彼は照れくさそうに言います。
「人生は、下りばかりでも上りばかりでもないですね」
「ええ。ときどき立ち止まって、景色を褒めてあげたいです」
その言葉に、二人は小さく笑いました。斜面に残した弧も、フロアに残した足跡も、やがて形は消えます。それでも、誰かと並んで描いた軌跡は、心の中でいちばん長く続くのだと知っていたからです。
昭和の空気は今もどこかに漂っています。朝の白い息、木造の床のきしみ、レコード針の微かな擦れ。マキエさんの胸には、蔵王の風とダンスホールの旋律が、同じ温度でしまわれています。雪に描いたシュプールは、いまも心の奥で光り続け、その光は、手を取り合って進む二人の道をやさしく照らしているのです。
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