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過ぎ去った停車駅(純文学小説バージョン)


夕暮れの渋谷は、仕事を終えた人々でいつもより賑わっていた。印刷会社の社長、高橋昭夫はその日も一日中、納期に追われて仕事をしていた。


「高橋社長、今日の最終チェックが終わりました」


若手社員の田中が、疲れた表情で報告に来た。



「ご苦労、田中君」高橋は微笑んで答えた。


「君も今日は残業か」


「はい、でも明日の納品に間に合いそうです」


「そうか、良かった」高橋は安堵の表情を浮かべた。


「クライアントも喜ぶだろう」


高橋は窓の外を見やり、赤く染まった空を眺めた。時計の針は、とうに定時を過ぎていた。


「もう少しだ。あと一踏ん張りすれば…」


高橋は目を擦りながら、デスクに山積みの書類を見つめた。


夜の十時を回った頃、高橋はようやくオフィスを出ることができた。渋谷駅に向かう途中、道行く人々の会話が耳に入ってくる。


「ねえ、今日の飲み会どこに行く?」

「いつもの居酒屋でいいんじゃない?」


楽しげな声に、高橋は少し羨ましさを感じた。


東急田園都市線のホームで電車を待つ間、高橋は深いため息をついた。


「やっと帰れる…」


つきみ野へ帰るために電車に乗り込み、座席に身を沈めると、彼の疲れた体はすぐに睡魔に襲われた。


「少し目を閉じるだけだ…」


そう思いながら、高橋は目を閉じた。


電車は、夜の帳が下りた東京の郊外を静かに走り続ける。車内のほとんどの乗客も、長い一日の終わりに静かな時間を過ごしていた。


「次は終点、中央林間、中央林間です。お忘れ物のないようご注意ください」


車掌のアナウンスで目を覚ました高橋は、慌てて周りを見回した。


「え?ちょっと待て、ここは…」


外を見ると、つきみ野駅とは違う地下の風景がそこにはあった。一瞬の混乱の後、高橋は自分が乗り過ごしてしまったことに気がつき、心の中で苦笑いした。


「まったく、こんなこともあるものだな」


高橋は自嘲しつつ、次の電車で戻ろうとしたが、ふと思い直した。


「こんな機会めったにないな。少し外の空気でも吸ってみるか」


駅を出ると、夜風が心地よく頬をなでた。高橋は深呼吸をし、久しぶりに星空を見上げた。



「綺麗だな…普段は全然気にしてなかったけど」


街路樹の葉が風に揺れる音、遠くで鳴く虫の声、そして静かな住宅街の佇まい。すべてが新鮮に感じられた。


「久しぶりだな、こんな気分は」


彼は呟きながら、ゆっくりと歩を進めた。


結局、高橋は無事につきみ野へと戻り、その夜は深い眠りについた。翌朝、目覚めた彼は、前夜の出来事から得た小さな教訓を胸に、新たな一日を迎える準備をした。


朝食の席で、妻の美香が尋ねた。


「昭夫、昨日は遅かったわね。大丈夫だった?」


高橋は少し照れくさそうに笑いながら答えた。


「ああ、ちょっとした冒険をしてきたよ」


「冒険?」美香は不思議そうな顔をした。


「うん、電車を乗り過ごして、思わぬ発見をしてきたんだ」


高橋は前夜の出来事を妻に話した。美香は優しく微笑みながら聞いていた。


「そう、たまにはそういうこともいいのかもね」


「ああ、そうだな。時には道を踏み外すことが、意外な発見へと導くこともあるんだ」


「でも、毎日じゃ困るわよ」美香は冗談っぽく言った。


「はは、そうだな。今日からはちゃんと目を覚ましていよう」


その日、オフィスに向かう電車の中で、高橋は窓の外の景色をじっくりと眺めた。


出社後、彼はこの経験を社員たちと共有することにした。朝のミーティングで、高橋は語り始めた。


「みんな、聞いてくれ。昨日、私は大切なことを思い出したんだ」


社員たちは、普段とは少し違う社長の様子に、興味深そうに耳を傾けた。


「仕事の中で時には立ち止まり、周囲を見渡すことの価値について考えてほしい」


「どういうことですか、社長?」ベテラン社員の佐藤が尋ねた。


「時には予期せぬ遠回りが、最も価値のある道になることもあるんだ」高橋は昨夜の経験を簡単に説明した。


「でも、締め切りがある仕事では難しいのでは?」新入社員の山田が不安そうに言った。


「その通りだ、山田君」高橋は頷いた。「だからこそ、普段から少し余裕を持つ習慣をつけることが大切なんだ」


「具体的にはどうすればいいんでしょうか?」田中が質問した。


「例えば、昼休みに短い散歩をしてみるとか、時々窓の外を眺めるとか。小さなことでいいんだ」


高橋の言葉に、社員たちの間で小さなざわめきが起こった。


「今日からは、少し余裕を持って仕事に取り組んでみよう。急ぐべき時は急ぐ。でも、時には立ち止まることも大切だ。そうすることで、新しい視点や解決策が見えてくるかもしれない」


「分かりました。試してみます」佐藤が代表して答えた。


その日から、オフィスの雰囲気が少しずつ変わり始めた。


「佐藤さん、ちょっと外の空気でも吸ってきませんか?」

「いいね、田中君。行こう」


社員たちは時折、窓の外を眺めたり、短い散歩に出かけたりするようになった。


「山田くん、その企画書、新しい視点が入ってるね。何かあったの?」

「はい、昨日散歩中に思いついたんです。前は気づかなかったことが見えてきて…」


そして、その小さな変化が、彼らの仕事にも良い影響を与え始めたのだった。


高橋は、自分の小さな失敗が思わぬ気づきをもたらし、それが会社全体にポジティブな変化をもたらしたことに、深い満足を感じていた。


「美香、ただいま」その日、高橋は早めに帰宅した。


「あら、今日は早いのね」美香は少し驚いた様子で言った。




「ああ、たまには一緒にゆっくり夕食でもと思ってね」


「うれしいわ。どうしたの、急に」


「時に人生は、予期せぬ駅で我々を降ろすんだ。でも、その瞬間こそが新たな発見の始まりなのかもしれない」


高橋は微笑みながら、妻の手を取った。


「さあ、今夜は二人で星でも見に行こうか」


高橋昭夫の「過ぎ去った停車駅」での経験は、彼自身と彼の会社に、そんな小さくも大きな変化をもたらしたのだった。そして、その変化は彼の家庭生活にまで及んでいったのである。

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