苫小牧出身のご利用者様に「どこの野球チームのファンだったんですか?」と伺ったところ「大毎オリオンズ」という初耳の回答で、ちょっとビックリ。
そこで
「苫小牧出身の方がいらっしゃるのですが、大毎オリオンズのファンだったとのことです。なぜ、その方が大毎オリオンズのファンになったのか、謎解きして下さい。」
とGoogleのAI「Gemini」にお願いしてみました。
この回答をそのご利用者様と一緒に読みながら答え合わせをしていくと、ご利用者様もビックリの名回答となりましたので、そのまま紹介をさせていただきます。
ーーー以下はGeminiの解答文章です。ーーー
苫小牧ご出身の方が、大毎(だいまい)オリオンズ(1958年~1963年、現・千葉ロッテマリーンズの前身)のファンだったとのこと。北海道から遠く離れた東京の球団をなぜ応援していたのか、大変興味深い謎ですね。
この謎を解く鍵は、当時の「苫小牧という街の特性」と「大毎オリオンズの親会社」の関係性にあります。地理的な距離を超えた、強力なつながりが見えてきます。
推理を進めると、主に3つの大きな要因が浮かび上がります。
1. 「紙のまち」苫小牧と親会社「毎日新聞」の産業的結びつき
最も根本的な理由は、苫小牧の産業構造にあります。
苫小牧は、王子製紙を中心とした「紙のまち」として発展してきました。一方、大毎オリオンズの「毎」は、親会社の一つである毎日新聞社を指します(もう一つは映画会社の大映)。
製紙会社と新聞社は、新聞用紙の供給を通じて極めて重要な取引関係にあります。新聞社は製紙会社なしには成り立たず、製紙会社にとって新聞社は最大級の顧客です。
企業城下町である苫小牧において、多くの住民が製紙業やその関連産業に従事していました。自分たちの街の経済を支える産業と深く結びついている毎日新聞社に対し、住民は強い親近感を抱いていました。
この産業的なつながりから、毎日新聞社が保有するプロ野球チーム「大毎オリオンズ」を、他の球団よりも「身内」として応援する素地が地域全体にあったと考えられます。
2. 決定的な絆:「都市対抗野球大会」と毎日新聞
産業的な結びつきに加え、さらに決定的なつながりが当時の野球文化にありました。
当時の苫小牧市民の誇りは、社会人野球の強豪「王子製紙苫小牧硬式野球部」でした。社会人野球人気はプロ野球に匹敵するほどで、市民は熱狂的に地元のチームを応援していました。
そして、社会人野球の最高峰であり、王子製紙が目指す檜舞台「都市対抗野球大会」を主催しているのが、他ならぬ毎日新聞社なのです。
王子製紙苫小牧は、大毎オリオンズ時代の1959年に都市対抗野球に初出場しています。
苫小牧市民は「王子製紙野球部」を熱狂的に応援していた。
そのチームが目指す最高の舞台「都市対抗野球大会」は毎日新聞社が主催していた。
毎日新聞社は「大毎オリオンズ」のオーナーでもあった。
この構造により、「地元のチームがお世話になっている新聞社だから、そのプロ野球チームも応援しよう」という意識が強く働いたと推察されます。産業とスポーツの両面で、苫小牧と毎日新聞社は深く結びついていたのです。
3. チームの魅力と地域との縁
もちろん、地域的な要因だけでなく、チーム自体の魅力や縁もファン心理を後押ししました。
「ミサイル打線」への憧れ
当時の大毎オリオンズは、山内一弘、榎本喜八、田宮謙次郎といった球史に残るスター選手を擁し、その強力打線は「ミサイル打線」と呼ばれ恐れられました。1960年にはリーグ優勝も果たしています。北海道にプロ球団がなかった当時、全国的に有名で華のある強豪チームの野球は、遠方のファンの心も掴みました。
地域コミュニティとのつながり
さらに、苫小牧の野球界にはオリオンズOBが関わっていました。元・毎日オリオンズ(大毎の前身)の選手であった金子満夫氏は、後に苫小牧工業高校の監督となり、甲子園に導く名将となりました。こうした人的なつながりが、地域の野球コミュニティに影響を与えていた可能性も考えられます。また、函館出身の沼澤康一郎選手など、北海道出身の選手が在籍していたことも親近感につながりました。
結論
苫小牧の方が大毎オリオンズのファンになったのは、全国的な強豪「ミサイル打線」への憧れに加え、「製紙業」という産業的な結びつきと、社会人野球の祭典「都市対抗野球」を通じた文化的な絆により、親会社である毎日新聞社への強い親近感があったためだと考えられます。
これは、地理的な距離を超えた、当時の企業城下町ならではの現象と言えるでしょう。





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