麦の香りと日々の記憶 水彩画のような柔らかな光が、昭和三十年代の芳賀町の春の田園を染めていた。空気は澄み、風が運ぶ土の香りは生命の目覚めを告げていた。その光景の中に溶け込むように、一人の少女が佇んでいた。 サチコ。 十歳の彼女の瞳には、この世界のすべてが鮮やかに映っていた。田んぼの畦道を歩くサチコの足取りは軽やかで、時折立ち止まっては水面に映る自分の姿を不思議そうに覗き込む。薄い木綿の服が風に揺れる様は、まるで風景画の中の一筆のようだった。 午後の授業を終えたサチコの楽しみは、夕暮れの田んぼでのドジョウ捕りだった。他の子どもたちが騒がしく遊ぶ中、サチコはひとり、水と戯れるように泥の中に手を差し入れる。指先に触れるドジョウの滑らかな感触は、言葉にならない喜びをもたらした。 「あっ、いた!」 小さな声を上げると、その音は夕闇の中に吸い込まれていく。西の空が赤く染まり始めると、サチコは捕まえたドジョウを小さな竹籠に入れ、家路に就いた。畦道の両側では、稲の若葉が風に揺れ、それは少女に手招きをしているようにも見えた。 「ただいま」 障子戸を開けると、炊事の音と共に母の温かな声が返ってきた。竹籠を台所に差し出すと、母はにっこりと微笑み、その日の夕餉の準備に取りかかった。 「今日はたくさん捕れたわね」 母の手にかかると、泥臭いドジョウは香ばしい一品へと変わる。囲炉裏の火が揺らめき、その光が天井の梁を照らし出す。家族が囲炉裏を囲み、その日の出来事を語り合う時間は、サチコにとって何よりも安らかな時間だった。 春から初夏にかけて、サチコの家族は田の神様に豊作を祈りながら、米作りに勤しんだ。鍬を手に額に汗を浮かべる父の背中は、サチコの目にはとても頼もしく映った。稲の成長と共に季節は移ろい、田んぼの緑は黄金色へと変わっていった。 稲刈りが終わると、父は畑に麦を蒔き始めた。「今年の麦はきっといい出来になる」と父が言うたびに、サチコは小さく頷いた。それは単なる農作業の一環ではなく、一家の希望を土に埋める儀式のようだった。 やがて麦が芽吹き、青々とした畑が広がる頃、遠くの町からパン屋がやってくる。サチコの家で作られた麦と交換に、パン屋は焼きたてのパンを届けてくれるのだ。その香りは、サチコにとって特別な日の証だった。 「サチコ、パンが来たよ」 母の呼び声に飛び起きた朝は、いつもより鮮や...
桜色の記憶 青い空に浮かぶ白い雲を見上げながら、ヒロコは学校の正門を出た。女学校の制服の襟元を整えると、友人たちに声をかけた。 「ねえ、今日は弘前公園に寄っていかない?」 昭和25年の弘前の春は、いつもより暖かく訪れていた。桜の蕾もほころび始め、もうすぐ満開を迎えようとしていた。ヒロコの家は弘前公園から歩いて30分ほどの場所にあり、彼女にとって公園への寄り道は日常の小さな冒険だった。 「いいわね!」と真知子が即座に答え、続いて文子と淑子も頷いた。四人は並んで坂道を下り始めた。 「でも、バス代は?」と淑子が心配そうに尋ねた。 ヒロコは微笑んで答えた。「歩いて帰ればいいのよ。そうすればバス代でお団子が買えるわ」 「あなたって、いつも考えてるのね」と文子が笑った。 弘前公園へ向かう道すがら、古い町並みが続いていた。瓦屋根の家々や、石畳の小道は、時間が止まったかのようだった。 「あそこ!」と真知子が指差す先には、創業百年を超える老舗の和菓子屋「松風堂」があった。店先には季節の和菓子が並び、中でも桜色の団子が四人の目を引いた。 「いらっしゃい」と店主の老婆が笑顔で迎えてくれる。 「桜団子を一つください」とヒロコが小銭を出した。 「みんなで分けるの?」と老婆は優しく尋ねた。「それなら、ひとつおまけしてあげるよ」 感謝の気持ちを伝えると、四人は弘前公園へと足を運んだ。 弘前城を背景に、お堀の周りには桜の木が立ち並び、間もなく満開を迎える花々が風に揺れていた。四人は石橋の上に腰掛け、団子を分け合った。 「甘くておいしいわね」と真知子が口の端に残った餡子を拭いながら言った。 その時、公園の一角から賑やかな声が聞こえてきた。満開に近づく桜の木の下では、赤ら顔の男性たちが盃を交わしていた。酒瓶が何本も並び、大きな声で歌を歌う者もいる。 「また飲兵衛たちね」と文子がため息をついた。 ヒロコは眉をひそめた。毎年この季節になると、弘前公園は花見客で賑わうが、中には酒に酔って騒ぐ人たちもいた。彼らは遠目には楽しそうに見えたが、近くを通ると酒の匂いがきつく、時には下品な冗談を言い合う声も聞こえてきた。 「あんな風に酔っ払うなんて、嫌だなぁ」とヒロコは小声で言った。 「大人になっても、あんな風にはならないようにしましょうね」と淑子が真面目な顔で約束する...